fuzkueという場所
ひとりって楽しい、と思わせてくれる空間にいった。
京王新線の初台駅すぐのところに、fuzkueというカフェ(と言っていいのかはわからないが)のような場所がある。とにかく、本を読むことに最適な空間づくりに徹しているお店で、おしゃべり禁止(ヒソヒソもダメ)、パソコンのキータッチも原則NG・・・などなど、決まり事が多く、しかしそのぶん快適な読書空間を実現しているお店でもある。
fuzkueのHPを見ていただければ、その雰囲気が多少なりとも伝わると思う(むちゃくちゃ長い説明がき、というは本当にあって「これかこれが噂の!!」と嬉しくなったりした)。
店主の阿久津さんがこのお店の開店準備をしている時から知っていた。開店したことも知っていた。だが、今の今までなかなか行く機会がなくて、やっと行けることになったのはいいものの、引っ張りすぎて「行くの緊張する・・・」状態に。
そんなfuzkue、初訪問。
初台駅で降りて、fuzkueの扉を開ける。静寂。
席に着き、あまりに長い説明書きを読む。静寂。
店員は女性だ。あ、これがfuzkueのブログに出てきた「ひきちゃん」か・・・。静寂。
か、カフェオレとチーズケーキください。「はい」。あ、ひきちゃんが喋った。
確かに静寂といえば静寂なんだけど、心地よい音楽は流れるし、飲み物を用意する音や食器を洗う音もたまに響き、程よい静けさ、という表現がぴったりな空間だと思った。まさに、本を読むための空間だ。 結局3時間半ほど滞在し、いい時間を過ごしたという幸福感とともに帰宅。
やっと来れたという嬉しさとともに、もっと早くきてこの素晴らしい空間を知れていたらなあ・・・という悔しさも同時に感じた、fuzkueの時間だった。
『ふしぎな君が代』(辻田真佐憲、幻冬舎新書)
- 作者: 辻田真佐憲
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/07/29
- メディア: 新書
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国歌のはずなのに、何かと論争になる「君が代」、私たちはその国歌についてどれだけのことを知っているのだろうか?と問いかけてくるのが本書『ふしぎな君が代』だ。
明治維新後、外交儀礼上国歌が必要になった際、古くから親しまれてきた古歌を歌詞の原型とし、君が代が作曲された。しかしそのメロディは、今日我々が知る君が代のそれではなく、別物であった。しかも急ごしらえの製作だったために「国歌案」はいくつも出現し、現在の君が代が事実上の国歌になったのは1893年ごろまで待たねばならなかったと本書は指摘する。
戦前において天皇を讃える歌へと変貌した君が代は、しかしその歌い方(起立して姿勢を正し、一回だけ歌う)については昭和に入ってようやく統一されたものであり、我々がついイメージしがちな、戦前における君が代の神聖かつ厳格な取り扱いというのは、その曲の成立から長い年月が経った後でのことだった。
戦後においても君が代は国歌の座からひきづり降ろされる可能性もあった。軍国主義的である、曲調が暗いなど、今でも言われ続ける批判は当時から(いや、「暗い」については成立初期から・・・)あったようだ。恋歌であった古歌をもとにした歌詞でありながら、戦前天皇のみを賛美する曲であった君が代は、戦後においても「君」が天皇をさすことを否定しなかった。しかしその解釈は180度変わり、日本国憲法下においては天皇が「象徴」であることから、「君」すなわち天皇を讃えることは日本国・日本国民を讃えることであるという解釈を得た。そして今日まで、その国歌としての地位を守り続けている。
本書に書かれている君が代の国歌としての成立過程、晒されてきた批判、そしてそれをくぐり抜け国歌としてその地位を強固にしてきた過程を相当ざっくり書くとこんな感じだが、読めば本書が平易にかつ詳細に、君が代の正体をあらわしてくれていることがわかるはずだ。ちょっと避けがちな君が代の話題、それを滅法面白く読ませてくれる、好著だ。
本書を読むと、「君が代の成立時は実は今とは違ったメロディがついていた」ということがわかる。今日、「へぇ、そうなんだ」と思ったらすぐにYouTubeで検索すると、音源がヒットするのがありがたい。
まずは現行の国歌、「君が代」。
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これが成立当時、イギリス海軍のお偉いさんだったフェントンがメロディをつけた「君が代」。
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文部省が、唱歌として「君が代」を作ったこともあった。
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戦時中、第二の国歌扱いをされた「愛国行進曲」。
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電子書籍を貸し借りできたら、最高なのに
タイトルのママ。 私は電子書籍をよく買うし、電子書籍リーダー(kindle PaperWhite)にもとってもお世話になっている。今後も(是非紙の本と一緒に)電子書籍の普及発展は続いて欲しいと思っている。 ただし、お願いだから、早く電子書籍の貸し借りができるようになって欲しい、とも強く感じている。別に本の貸し借りを頻繁にやるわけじゃないのだけれど、ある程度の貸し借り(例えば数名に限り〇〇日間だけとか)を許容してくれれば、電子書籍の所有感が高まり、「紙の本じゃないと・・・」という人も一定程度振り向かせることができるんじゃないかと想像するんだけれど1。
それに、ちょっと気になる人と好きな漫画の話ししてて、「よかったら貸しましょうか?電子書籍で」とか言いたいじゃないですか(違う)。
飲み会でヒトは退化する
- 自分のコップに飲み物を注げなくなる
- 感情を抑えられずに人に説教をする
- カラオケで自分の歌いたい曲を予約できなくなる
もうやめろや。
穂村弘さん
を読んだ。人気歌人で、エッセイも多数発表している穂村さん。日常に潜む、どことない違和感、生きづらさを、しかしとても魅力的に描かれている。
この本の中に「神様」というエッセイがある。自分にとって憧れの人、といった意味なのだが、私にとって穂村さんもまた、神様のようだと思った。 私にとっての穂村弘は、世界の創造者としての神様、だ。短歌で、エッセイで、我々が見ているはずの、しかし一向に掴めない、表現できない、文章にできない世界をさらりと目の前に提示してくれる。日常と日常の間には無数の隙間があって、その先には別の世界が並行して走っていて、うまく隙間から手を入れるとその世界を引っ張ってこれるとしたら、穂村弘はそれをできる人、してくれる人だと思う。並行して走っている世界を引っ張り出し、それを短歌やエッセイに「翻訳して」我々の前に提示してくれる。我々が見えない世界を取り出す、創り出すという意味において彼は創造者なんじゃないか、と思う。
穂村弘さんって素敵で、ちょっと怖い感じもして、でもやっぱり魅力的で。
— 水ようかん (@mizyokan38) 2017年9月3日
羨ましくて、ちょっと憎らしいくらい。
心ざわつかされる人だ。
不思議で、魅力的な、穂村さん。まだ、「ほむほむ」などと呼ぶ気にはなれない。
チラ見
「いま胸見てたでしょ」
友人(女性)にそう言われた。その友人と、もう一人別の女性と一緒に食事をしていた時のこと。私は四人がけテーブルの、二人の向かいに座っていて、その女性の話を聞いていた。 その女性の胸を見ていたでしょう、と友人に指摘されたわけだ。
私はそもそも人の目をじっと見ることが苦手で、よく視線をそらしてはいろいろなところを見てしまう癖がある。この時もそんな癖が発動していたのだが、友人からは「胸を見ていたでしょ、そういうの女性はすぐわかるんだから気をつけたほうがいいよ」と言われてしまったわけだ。 いやいや、別に胸を見ていたわけじゃなくてさ・・・視線がたまたま下の方に・・・いやそれってやっぱり胸を見ていたことになるのかな、そもそも無意識に見たいという気持ちが視線をそっちに・・・ああああ。
そんなことで思い悩んでいたところ、そういえばと思った。私は外見のコンプレックスの塊みたいな人間なので、他人が自分と話しているときにふと目線が外れることがすごく気になる、ということ。
あ、いまこの人私の髪を見た。ヘアスタイルに無頓着な私のことバカにしたのかな・・・。
あ、いまこの人私の服を見た。ダサいシャツだって思ったのかな・・・。
あ、いまこの人私の足を見た。スタイル悪いなって聞こえるんだよその心の声・・・。
あまりに卑屈である、でもそう思ってしまうのだ。もしかしたら私が胸を見てしまった女性も、そんなことを思っていたのかと思うと、途端に申し訳なくなった。