#nowreading

本と生活、その断片

検索技術者検定の受験票が届いた

f:id:ochiba38:20171119195255j:plain

検索技術者検定(いわゆるサーチャー試験)の3級合格を目指している。

情報検索やサーチャー的な役割の概略を知るために、資格をモチベーションに勉強をしている。 この試験と、CourseraのDMP講座、gaccoの研究データ管理講座、3つが重なってさすがにキツイのだが・・・。

ochiba38.hatenablog.com

ochiba38.hatenablog.com

gaccoで研究データ管理の講座を受講し始めた

日本語MOOCsのプラットフォームであるgacco(なんて発音するのか、未だにわからない。ガコー?ガッコー?ジーエーシーシーオー?)で、先日開講した「オープンサイエンス時代の研究データ管理」を受講し始めた。

オープンサイエンス時代の研究データ管理

Coursera”でも”Research data management and sharing”というコースを受講しているところで、できればそちらに集中したかったのだが、開講時期が重なってしまったので仕方がない。むしろ、英語力が不十分な私にとっては、同時期に同じような内容(細かい点は違えど、Courseraでもgaccoでもデータ管理の考え方については同じようなことを扱っている)を日本語で聴けることは学習効率を考えるとプラスかも知れない。

ochiba38.hatenablog.com

ただし、Courseraに比べてgaccoは(というかこの講座は)ちょっと「映像配信のために講義しました」感が強い。というのは、講師が喋るスピードもゆっくり(のぶんだけ聞き漏らしはないんだけど)だし、画面(スライド)の切り替え時間も相当ゆとりをもって作られている。正直、もうちょっとぱっぱと進めてくれよ・・・と思ってしまう。再生スピードを変えることもできないしね。

それでもここは、基礎力を固めるためということで、Courseraもgaccoも修了を目指してコツコツとやっていくつもり。

CourseraでDMP(データ管理計画)のコースを受講してみた

代表的なMOOCs(massive open online courses)プラットフォームの一つ、“Coursera | Online Courses From Top Universities. Join for Free”で”Research data management and sharing”というコースを受講している。

www.coursera.org

DMP(Data Management Plan:データ管理計画)については日本(の大学)においても今後重要になってくるものであろうから、一度勉強しないとな、と思ってはいた。そんな折、先日開催図書館総合展でNIIが主催したフォーラムの一つ、あなたもなれる「データライブラリアン」 | 図書館総合展に参加した際、このcourseraのDMPコースが紹介されていて、かつちょうど開講中だったことから*1、さっそく受講をしてみることにした。

実はcourseraは以前一度登録し、いくつかのコースを受講してみたのだが、結局最後まで終わらせたコースは一つもなく、登録したことすら忘れていた。今回久しぶりにログインをしてみて、実際コースを受講し始めて間もないのだけれど、iOSのアプリも使いやすくなっていて受講を楽しんでいるところ。

アプリで学習が完結するのは便利

以前受講した時もiOSアプリをダウンロードした記憶があるのだが、その当時既にこれほど使いやすい形になっていたかは覚えていない。すべての講座がそうなのかはわからないが、少なくとも私が受講しているResearch Data Management and Sharingのコースでは、アプリですべての動画が見ることができ、すべての課題をこなすことができる(と思う。なにせ受講し終わっていないので)。受講の際に便利なのが、

  • 動画をダウンロードして、オフラインで見ることができる
  • 字幕をつけることができる
  • トランスクリプトがある
  • ノートをつけることができる

といった点。具体的には以下のような感じ。

f:id:ochiba38:20171112195109j:plain

私はiPad ProとiPhoneで受講している。アプリは一つの画面に必要な情報が過不足なく配置されていて使いやすい。

f:id:ochiba38:20171112195124j:plain

動画を見ながら、字幕も出せるし、トランスクリプトも見れる。しかも、今どこを喋っているのかをハイライトしてくれるので、英語が苦手な人でも安心。なお、トランスクリプトをタップすれば、そこにジャンプして聞きなおすこともできる。 重要だな、と思うところで画面一番下の”SAVE A NOTE”をタップすれば、その部分をブックマーク的に保存してくれるとともに、自分のメモ(note)を残すこともできる。

f:id:ochiba38:20171112195131j:plain

受講者同士でreviewする課題がちょっと楽しい

これらの機能があるため、英語の講義でもある程度リアルタイムについて行くことができて、「英語聞き取れなかった・・・」といってなんども無駄に聞き返したりする必要がない。ノートを保存することもできるし、(このコースにおいては)それぞれのユニットごとにsummeryのパートがあり、それらを見返すことでユニットごとに課されるquizにも対応できる。

また、(このコースの)各ユニットごとの課題では、レポート課題の形をとったものの提出も求められる(ただしコースの合格判定には含まれないようだ)。それらは受講者同士でpeer-reviewすることとされていて、私の提出した課題も、世界のどこかで同じ時期日本コースを受講している誰かから、reviewしてもらった。オンライン学習というと、どうしても動画を一人で見てなんとなくわかった気になる・・・ということをイメージするが、こうしてインターネット上で世界の誰かと一緒に勉強している実感が持てるのは、とても素敵なことだと思った。もちろん私も、別の受講者の課題をreviewした。

お金も払ったので、最後までやりきる(つもり)

Courseraの講義自体は、無料で受講できる。しかし今回は、ちゃんと受講し終わりたい、そしてそのことを公式に記録として残したい、ということでお金を払って修了証を出してもらうことにした(7000円くらい?)。もちろん全ユニットを受講し終わり、課題を提出して合格することが、修了証をゲットする条件だが・・・。

今の所は受講環境も申し分ないし、講義もわかりやすく課題のpeer-reviewの仕組みも楽しいので、それなりに順調に進んでいるところ。

数週間後には、修了証を手に入れたぞ!という記事を書きたい。

*1:よくわかっていないのだが、開講中ではない講座は、動画を見たり課題を提出したりできないものらしい

私淑

野矢茂樹さんの『大人のための国語ゼミ』が売れているようだ。本屋さんに行って「売り上げランキング」的な棚があると、必ず上位にランクインしている。東洋経済も「国語力」を特集しているし、国語力や論理力的なものがちょっとしたブームなのだろう(ロジカル系、とでも言えばいいのか、こういったものはたまにプチブームを迎える)。

ブームのせいなのか、この間新宿の紀伊國屋書店に行ったところ、平台に『論理トレーニング101題』が置かれていた。

これはなんだか嬉しい。『論理トレーニング101題』、私は大学生の時に読み、何度もなんども繰り返しチャレンジした。文章を読んだり書いたりすることが苦手で、レポートや卒論(とそれに付随する先行研究の読み込み)なんて書けないよ・・・となっていた私が、なんとか読み書きできるようになったのは、この本のおかげだと思っている。今でも、「大学新入生に本を1冊進めるとしたら!」と聴かれたら(聴かれたことなんてないし今後もないだろうが)、迷わずこの本をあげる。

大人のための国語ゼミ

大人のための国語ゼミ

論理トレーニング101題

論理トレーニング101題

渋谷新宿

先日用事があって渋谷、新宿を歩き回っていたのだが、以前これらの街に自分が持っていたネガティブな気持ちが、ちょっとだけ変わりつつあることに気づいた。

学生時代は、特に新宿に出かけていた。と行っても遊びに行くわけではなく、当時新宿三越アルコット(現ビックロ)にあったジュンク堂書店紀伊国屋書店など、大型書店に行って本をまとめ買いするために訪れていた。私は人混みが嫌いで、渋谷新宿のような街に行くと、1〜2時間ほどで頭痛がする体質なのだが、それでも大型書店の誘惑にはかなわず、いわば我慢して、通っていた。

駅に降り立ち書店までの道のりは、なるべく早足で道ゆく人の顔を見ないようにして歩いた。なんだか、その街にいる人たちに、コンプレックスを感じていたような気がする。男性も女性も、みんなキラキラしていて、おしゃれで、イカしてて、自信があるように見える。それに比べて、私は服装もダサくて、ルックスも良くなくて、地震のなさが現れた猫背だ。そもそもこんな街にきていい人種じゃないんだ。っけ、なんだよキラキラチャラチャラしちゃってさ、どうせ遊んでばかりでまともに勉強なんてしないだろう。 素敵な人たちに対する憧れや嫉妬を、心の中でよくわからない言いがかりをつけ、なんとか精神のバランスを保っていた気がする。渋谷新宿は、自分にそういう苦行を要求する場所だと思っていた。

ここ最近は渋谷新宿に行く機会はとんと減り、同じ人混みでも東京駅(や丸の内オアゾ丸善)などに行くことが多くなった。もちろん東京駅周辺もひどい人混みの時はあるが、それでも渋谷新宿よりはマシだと思った。 それが、先日久しぶりに新宿に行く機会があった。新宿東口の繁華街を歩きながら、早く用事を済ませて帰りたいな・・・と思っていたが、こちらも無駄に歳を重ねたせいか、なんとなく周りを見る余裕もできてきたようだ。そうやって道ゆく人とすれ違い続けると、だんだんと自分の中にあったコンプレックスのようなものが溶けていく気がした。新宿を歩く人々が、あまりに多様だとわかったからだ。確かにキラキラチャラチャラな人もいる。私の苦手な人種だ。しかしそれとは真逆の人もいる。地味で鈍臭そうで、意識しなければ視野の片隅にも入ってこないような人がいる。

当然だ。あまりに当然のことだ。だが、それらどんな人でも新宿に馴染んでいる。誰も周りを気にしていない。それぞれがそれぞれ過ごしたいようにその街を歩いている。

繰り返すがあまりに当然のことだ。しかし、そんな当然のことを改めて意識した瞬間に、私自身とても楽になった。ああ、私が新宿を歩いていてもいいんだな、そりゃあ誰も私のことなんて気にしていないよねぇ、と。

今だったら、新宿駅から書店までの道のりも、もう少しゆっくりじっくり歩きたいと思うのに、もうジュンク堂書店も、紀伊国屋書店南口店も、なくなってしまった1


  1. もちろん紀伊国屋書店本店は健在だが、ちょっと遠く感じるんだよなあ。

空想

子どものときに、いつも手のひらのなかに見えないスイッチを握っていた。なにか困ったことがあると、空想のなかで「カチッ」とそのスイッチを押せば、すべてうまくいく、ということをずっと想像していた。(『断片的なものの社会学』、岸政彦、朝日出版社

こうだったらいいのにな、ということを想像することがよくある。朝起きたら、想像どおりの、全く違う人生がはじまる、みたいな。

小学生の時はサッカー選手だった。実は自分にはとんでもないサッカーの才能があって、いつの日かその才能が突然開花する、ということを夢想した。 高校サッカーで活躍してプロになって、海外に行って。

大学生の時は(大学生にもなってこういう空想が止められなかったのだ)、異性にモテることだった。いつからか自分の容姿がとんでもなくよくなり、異性にモテ、バラ色の人生(ってどんなだ)を送る。

実は大人になって働き始めた今でもそういう空想をする。いまは、お金。お金持ちになることを空想する。宝くじで10億が当たって、マンション買って投資しつつ、好きな仕事だけして幸せな老後を迎える・・・。

しんそこくだらないと思う。ただ、思い返してみると、そして現在進行形で続く空想を省みると、そのときそのときで、なんとなく、もしかしたら手に入るかもしれない、と思うものを空想の拠り所としている気がする。

もし私がこのまま、「もしかしたら手に入りそうなもの」に空想を預けていくとする。そうすると、ちょっと恐ろしくもなる。僕はこれからの何十年間、お金以外のものに空想を預けるだろうか。空想の中で、私はお金にものを言わせて、色々なものを手に入れている。そうすると、もうお金以外のものを空想の対象に選ばなくなってしまうのではないかという不安がよぎる。

小学生の時のサッカーみたいに、自分が好きだと思えるものを持ち、それに空想を預けるだろうか。それとも、そんなものはこの先見つからず、お金にのみ空想を預け続けるのだろうか。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学