#nowreading

本と生活、その断片

『うしろめたさの人類学』(松村圭一郎著、ミシマ社)

著者は人類学者であり、エチオピアでのフィールドワーク経験から、贈与/交換をキーワードに「境界を引き直す」ことを提案する。

うしろめたさの人類学

うしろめたさの人類学

贈与の関係は、なにかと厄介だ。でも、そこで生じる感情や共感を増幅させる。ぼくらは、そこでそのつど、交換/贈与のモードを選択しながら、そこにふさわしい感情を表出し、受けとめている。もし、ある人と親密になりたければ、積極的に贈与しなければならない。愛情は「こころ」のなかで育まれるのではなく、モノや言葉のやり取りという行為の「輪」の中で現実化するのだから。(p. 64)

我々は日常の中で交換を行う。お金と商品・サービスを交換する、日々の経済活動はまさにこれだ。一方、モノや言葉のやり取りには贈与、という形態も存在する。たとえばエチオピアではコーヒーは一人で飲むものではなく、近隣の人を誘って、ふるまう。贈与だ。物乞いにお金を与えるのも、贈与だ。この交換と贈与のモードを選択しながら、人と人との、人と社会や世界との関係性を作っている。しかし、著者はそのバランスが崩れているのではないかという問いを提示する。そして、仮にそうだとしたら、その状況にたいしてわたしたちができることは、与える/受け取るということを、今までと違うやり方で行う、すなわち「ずらす」ことで、今までの線の引き方を揺さぶることなのではないかと。

では、どうしたらいいのか?
まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。(p.174)

市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あふれる人のつながりを生み出す。その人間関係が過剰になれば、国や市場のサービスを介して関係をリセットする。自分たちのあたりまえを支えてきた枠組みを、自分たちの手で揺さぶる。それがぼくらにはできる。(p. 178)

日常において「うしろめたさ」に気づくことを増やし、市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませ、そして線を引きなおす。抽象的なようであるが、与えること、というキーワードをもとに、人と、モノとの関係を新たに構築しようという著者の提案は、いろいろな場面に適用できるのではないか。新年だし、ちょっとうまくいかないあの人に、飴ちゃんでもあげてみようかしら、とか(違うか?)。

たぶん、世界を根底から変えることはできない。おそらくそれはよりよい方向に近づく道でもない。ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。(p. 182)

自らの可能性を大きく見積もりすぎることなく、しかし一方で、我々の行動が確実に世界を変えるのだという、ちょっとの勇気と都合のいい希望を、持ってみてもいいかなと思った。

2017年最後にして最高の一冊『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎 著、光文社新書)

面白かった、抜群に面白かった。読んだのは年末だったのだけど、最後の最後に2017年最高の一冊に躍りでた。

昆虫博士を目指し、「サバクトビバッタ」というアフリカで時に大発生し食糧問題を引き起こす原因ともなるバッタを研究する前野氏。本書はその前野氏のアフリカでのフィールドワーク冒険記と読むこともできれば、ポスドクの悲しき難しき就活問題を提起するほんとも読める。さらには研究者の生態を手軽に知れる読み物であるとともに、困難な道の中に光を見つけ、それをより輝かせていく青年の物語から勇気を得られる本でもある。

前野氏は軽いタッチで書き進めながらも、数少ないポストを目指して熾烈な競争を繰り広げるポスドクの不安定さは痛いほどつたわる。自然環境を相手に研究するということがどれだけ難しいかということも、素人でも痛いほど感じる。しかしそんな困難な道の中にあっても、前野氏は日々研究の喜びに、自らを支えてくれる人たちの優しさに気づく。そして、それに感謝する。

好きなことを突き詰めながら、それがいかに周りの人に支えられているのかを認識しながら、さらに突き進んでいく。そんな前野氏から2018年も頑張ろうと元気をもらえるような、そんな一冊だ。

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

『ふしぎな君が代』(辻田真佐憲、幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

国歌のはずなのに、何かと論争になる「君が代」、私たちはその国歌についてどれだけのことを知っているのだろうか?と問いかけてくるのが本書『ふしぎな君が代』だ。

明治維新後、外交儀礼上国歌が必要になった際、古くから親しまれてきた古歌を歌詞の原型とし、君が代が作曲された。しかしそのメロディは、今日我々が知る君が代のそれではなく、別物であった。しかも急ごしらえの製作だったために「国歌案」はいくつも出現し、現在の君が代が事実上の国歌になったのは1893年ごろまで待たねばならなかったと本書は指摘する。

戦前において天皇を讃える歌へと変貌した君が代は、しかしその歌い方(起立して姿勢を正し、一回だけ歌う)については昭和に入ってようやく統一されたものであり、我々がついイメージしがちな、戦前における君が代の神聖かつ厳格な取り扱いというのは、その曲の成立から長い年月が経った後でのことだった。

戦後においても君が代は国歌の座からひきづり降ろされる可能性もあった。軍国主義的である、曲調が暗いなど、今でも言われ続ける批判は当時から(いや、「暗い」については成立初期から・・・)あったようだ。恋歌であった古歌をもとにした歌詞でありながら、戦前天皇のみを賛美する曲であった君が代は、戦後においても「君」が天皇をさすことを否定しなかった。しかしその解釈は180度変わり、日本国憲法下においては天皇が「象徴」であることから、「君」すなわち天皇を讃えることは日本国・日本国民を讃えることであるという解釈を得た。そして今日まで、その国歌としての地位を守り続けている。

本書に書かれている君が代の国歌としての成立過程、晒されてきた批判、そしてそれをくぐり抜け国歌としてその地位を強固にしてきた過程を相当ざっくり書くとこんな感じだが、読めば本書が平易にかつ詳細に、君が代の正体をあらわしてくれていることがわかるはずだ。ちょっと避けがちな君が代の話題、それを滅法面白く読ませてくれる、好著だ。


本書を読むと、「君が代の成立時は実は今とは違ったメロディがついていた」ということがわかる。今日、「へぇ、そうなんだ」と思ったらすぐにYouTubeで検索すると、音源がヒットするのがありがたい。

まずは現行の国歌、「君が代」。

\bookclub.kodansha.co.jp

を読んだ。人気歌人で、エッセイも多数発表している穂村さん。日常に潜む、どことない違和感、生きづらさを、しかしとても魅力的に描かれている。

この本の中に「神様」というエッセイがある。自分にとって憧れの人、といった意味なのだが、私にとって穂村さんもまた、神様のようだと思った。 私にとっての穂村弘は、世界の創造者としての神様、だ。短歌で、エッセイで、我々が見ているはずの、しかし一向に掴めない、表現できない、文章にできない世界をさらりと目の前に提示してくれる。日常と日常の間には無数の隙間があって、その先には別の世界が並行して走っていて、うまく隙間から手を入れるとその世界を引っ張ってこれるとしたら、穂村弘はそれをできる人、してくれる人だと思う。並行して走っている世界を引っ張り出し、それを短歌やエッセイに「翻訳して」我々の前に提示してくれる。我々が見えない世界を取り出す、創り出すという意味において彼は創造者なんじゃないか、と思う。

不思議で、魅力的な、穂村さん。まだ、「ほむほむ」などと呼ぶ気にはなれない。