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本と生活、その断片

空想

子どものときに、いつも手のひらのなかに見えないスイッチを握っていた。なにか困ったことがあると、空想のなかで「カチッ」とそのスイッチを押せば、すべてうまくいく、ということをずっと想像していた。(『断片的なものの社会学』、岸政彦、朝日出版社

こうだったらいいのにな、ということを想像することがよくある。朝起きたら、想像どおりの、全く違う人生がはじまる、みたいな。

小学生の時はサッカー選手だった。実は自分にはとんでもないサッカーの才能があって、いつの日かその才能が突然開花する、ということを夢想した。 高校サッカーで活躍してプロになって、海外に行って。

大学生の時は(大学生にもなってこういう空想が止められなかったのだ)、異性にモテることだった。いつからか自分の容姿がとんでもなくよくなり、異性にモテ、バラ色の人生(ってどんなだ)を送る。

実は大人になって働き始めた今でもそういう空想をする。いまは、お金。お金持ちになることを空想する。宝くじで10億が当たって、マンション買って投資しつつ、好きな仕事だけして幸せな老後を迎える・・・。

しんそこくだらないと思う。ただ、思い返してみると、そして現在進行形で続く空想を省みると、そのときそのときで、なんとなく、もしかしたら手に入るかもしれない、と思うものを空想の拠り所としている気がする。

もし私がこのまま、「もしかしたら手に入りそうなもの」に空想を預けていくとする。そうすると、ちょっと恐ろしくもなる。僕はこれからの何十年間、お金以外のものに空想を預けるだろうか。空想の中で、私はお金にものを言わせて、色々なものを手に入れている。そうすると、もうお金以外のものを空想の対象に選ばなくなってしまうのではないかという不安がよぎる。

小学生の時のサッカーみたいに、自分が好きだと思えるものを持ち、それに空想を預けるだろうか。それとも、そんなものはこの先見つからず、お金にのみ空想を預け続けるのだろうか。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学